《吾輩は猫である》第62章


く休息する。それからまた放す。放しておいてまた抑える。七擒七縦(しちきんしちしょう)孔明(こうめい)の軍略で攻めつける。約三十分この順序を繰り返して、身動きも出来なくなったところを見すましてちょっと口へ啣(くわ)えて振って見る。それからまた吐き出す。今度は地面の上へ寝たぎり動かないから、こっちの手で突っ付いて、その勢で飛び上がるところをまた抑えつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだから希毪蚴长盲渴陇韦胜と摔嗽挙筏皮⑾}螂はあまり旨(うま)い物ではない。そうして滋養分も存外少ないようである。希脶鳎à趣Δ恧Δ─辘舜韦い遣跞。à护撙龋─辘仍皮動をやる。単に蝉と云ったところが同じ物ばかりではない。人間にも油野郎(あぶらやろう)、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蝉にも油蝉、みんみん、おしいつくつくがある。油蝉はしつこくて行(い)かん。みんみんは横風(おうふう)で困る。ただ取って面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て来ない。八(や)つ口(くち)の尽à郅长恚─婴榍镲L(あきかぜ)が断わりなしに膚(はだ)を撫(な)でてはっくしょ風邪(かぜ)を引いたと云う頃熾(さかん)に尾を掉(ふ)り立ててなく。善(よ)く鳴く奴で、吾輩から見ると鳴くのと猫にとられるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。秋の初はこいつを取る。これを称して蝉取り邉婴仍皮Α¥沥绀盲戎T君に話しておくがいやしくも蝉と名のつく以上は、地面の上に転(ころ)がってはおらん。地面の上に落ちているものには必ず蟻(あり)がついている。吾輩の取るのはこの蟻の領分に寝転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中を捕(とら)えるのである。これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。人間の猫に優(まさ)るところはこんなところに存するので、人間の自(みずか)ら誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答が出来ないならよく考えておいたらよかろう。もっとも蝉取り邉由悉悉嗓盲沥摔筏皮獠睿à担─分Вà膜─à悉胜ぁ¥郡郎颏筏毪伽四兢蛏希à韦埽─盲菩肖盲啤⑾确饯瑝糁肖摔胜盲气Qいているところをうんと捕えるばかりだ。これはもっとも簡略な邉婴艘姢à皮胜胜扦握郅欷脒動である。吾輩は四本の足を有しているから大地を行く事においてはあえて他の動物には劣るとは思わない。少なくとも二本と四本の数学的智識から判断して見て人間には負けないつもりである。しかし木登りに至っては大分(だいぶ)吾輩より巧者な奴がいる。本職の猿は別物として、猿の末孫(ばっそん)たる人間にもなかなか侮(あなど)るべからざる手合(てあい)がいる。元来が引力に逆らっての無理な事業だから出来なくても別段の恥辱(ちじょく)とは思わんけれども、蝉取り邉由悉摔仙伽胜椁钉氩槐悚蛴毪à搿P窑俗Δ仍皮鳏ⅳ毪韦恰ⅳ嗓Δ长Δ扦辘悉工毪猡韦巍ⅳ悉郡且姢毪郅蓸Sではござらん。のみならず蝉は飛ぶものである。希刖à蓼辘螅─冗‘って一たび飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずと何の択(えら)むところなしと云う悲撙穗H会する事がないとも限らん。最後に時々蝉から小便をかけられる危険がある。あの小便がややともすると眼を覘(ねら)ってしょぐってくるようだ。逃げるのは仕方がないから、どうか小便ばかりは垂れんように致したい。飛ぶ間際(まぎわ)に溺(いば)りを仕(つかまつ)るのは一体どう云う心理的状態の生理的器械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。あるいは敵の不意に出でて、ちょっと逃げ出す余裕を作るための方便か知らん。そうすると烏伲àい─文蛲陇ⅴ佶楗螗岍‘の刺物(ほりもの)を見せ、主人が羅甸語(ラテンご)を弄する類(たぐい)と同じ綱目(こうもく)に入るべき事項となる。これも蝉学上忽(ゆる)かせにすべからざる問睿扦ⅳ搿3浞盅芯郡工欷肖长欷坤堡扦郡筏瞬┦空撐膜蝸齻帳悉ⅳ搿¥饯欷嫌嗍陇坤椤ⅳ饯韦椁い摔筏皮蓼勘绢}に帰る。蝉のもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は陳腐(ちんぷ)だからやはり集注にする。――蝉のもっとも集注するのは青桐(あおぎり)である。漢名を梧桐(ごとう)と号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉は皆団扇(うちわ)くらいな大(おおき)さであるから、彼等が生(お)い重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだ蝉取り邉婴畏梁Δ摔胜搿I悉工欷嗓庾摔弦姢à氦仍皮λ字|(ぞくよう)はとくに吾輩のために作った者ではなかろうかと怪しまれるくらいである。吾輩は仕方がないからただ声を知るべに行く。下から一間ばかりのところで梧桐は注文通り二叉(ふたまた)になっているから、ここで一休息(ひとやすみ)して葉裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて、飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。真似をする点において蝉は人間に劣らぬくらい馬鹿である。あとから続々飛び出す。漸々(ようよう)二叉(ふたまた)に到着する時分には満樹寂(せき)として片声(へんせい)をとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見廻わしても、耳をどう振っても蝉気(せみけ)がないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと、叉(また)の上に陣取って第二の機会を待ち合せていたら、いつの間(ま)にか眠くなって、つい疣_裡(こくてんきょうり)に撸Г螭馈¥浃人激盲蒲郅眩à担─幛郡椤⒍妞吸甜郷裡(こくてんきょうり)から庭の敷石の上へどたりと落ちていた。しかし大概は登る度に一つは取って来る。ただ興味の薄い事には樹の上で口に啣(くわ)えてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時は大方(おおかた)死んでいる。いくらじゃらしても引っ掻(か)いても確然たる手答がない。蝉取りの妙味はじっと忍んで行っておしい君(くん)が一生懸命に尻尾(しっぽ)を延ばしたり縮(ちぢ)ましたりしているところを、わっと前足で抑(おさ)える時にある。この時つくつく君(くん)は悲鳴を揚げて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振う。その早い事、美事なる事は言語道断、実に蝉世界の一偉観である。余はつくつく君を抑える度(たび)にいつでも、つくつく君に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになるとご免を蒙(こうむ)って口の内へ睿垼à郅校─盲皮筏蓼Α2酩摔瑜毪瓤冥文冥剡@入(はい)ってまで演芸をつづけているのがある。蝉取りの次にやる邉婴纤苫à蓼膜工伲─辘扦ⅳ搿¥长欷祥Lくかく必要もないから、ちょっと述べておく。松滑りと云うと松を滑るように思うかも知れんが、そうではないやはり木登りの一種である。ただ蝉取りは蝉を取るために登り、松滑りは、登る事を目的として登る。これが両者の差である。元来松は常磐(ときわ)にて最明寺(さいみょうじ)の御馳走(ごちそう)をしてから以来今日(こんにち)に至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほど滑らないものはない。手懸りのいいものはない。足懸りのいいものはない。――換言すれば爪懸(つまがか)りのいいものはない。その爪懸りのいい幹へ一気呵成(いっきかせい)に馳(か)け上(あが)る。馳け上っておいて馳け下がる。馳け下がるには二法ある。一はさかさにな
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